いのちにありがたう
「『自らのいのちをいかすこと』。これはなにも障害をもつ者に限らず言えることではないか。だとしたら、なんという奇跡だろうか。
そういう決定的な〝気づき〟があって、よろこびをもって会う人ごとにそれを伝えはじめた。しかし、話がかみ合う人はなかなかいない。こういう場合にそれまでしてきたように、文章を介しても同じであった。
そういう思いを、直接的に歌で表現できればいいのだが、いったん持ってしまった思い込みはつい出てきてしまうものらしく、未熟さもあってなかなかうまくは詠めていない。自然を詠んでも、社会を詠んでも、また自分の生い立ちやその内面を詠んでも、それは自然に表れるはずである。最近、やっとその門口に立てたと思うのは、錯覚だろうか。
ともあれ、なんとか共感し、いのちをいかしあえる輪がひろがってゆくのを待つばかりである。このよろこびを、多くのひとのこころに届くように、これからも歌を詠みつづけてゆきたい。
数ヶ月前、白砂氏から『障害』という字は『傷該』に変えたらどうか、という指摘があった。それはそのとおりだと思ったので、あっさり同意した。また先にやられたな、とも思いながら。
しかしこれまでの作品については、表記を変える、ということはしなかった。言葉には慣用化されたところがある。たとえそれに差別的な意味が含まれていたとしても、それだけでそれを新しい言葉と入れ替えればすむという問題ではない。間違いと受け取られるか、独りよがりに終わるか、そこはわたしも試行錯誤をくり返してきたところである。
そしてその結果『障害』をひとつの逆説の意味を込めて使うことにした。気がついてくださる方は驚きをもって受け取ってくださるだろう。もちろん、今後わたしは『障害者』などとは書くまい。」
歌集『いのちゆいのちへ』遠藤滋
あとがきより抜粋