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いのちをいかしていますか?


差異を見ず同じことをし求むるはこれぞまさしく差別ならずや


遠藤 滋


最近、わたしは自分のことを「障害者」と言うのをやめることにしました。もちろん、ひとはわたしを見て「障害者」と言うでしょう。でも、それはそれで構いません。あえてそう言うのをやめることを誰かに押しつけようとも思いません。


それではなぜそうすることにしたかと言えば、なにも自分から自分のことを「障害者」という枠に括ることはないとふと気がついたからです。自分で枠にいれておいて、何らかの障害をもつ者を差別するな、とは言えないだろうとあらためて思ったのです。説得力を持たないというだけでなく、そもそも自分の立ち位置に関わることでもあります。


それはそうと、わたしはこれまで「自立」という言葉をあまり使ってきませんでした。ひとに合わせて言うことはあっても、自分のことについてはとても口はばったくて言えませんでした。


そもそも、今でもなお、自立が出来るような環境はどこにもありません。わたしの場合は結婚によって家を出たのですが、なにかといえば親にも頼っていたし、また介助者グループのひとたちひとりひとりにも事実上頼って生きざるを得ないわけです。意外に思われるかもしれませんが、わたしは「障害者の自立」という言葉をほとんど口にしたことはなかったし、今はなおさらのことです。


代わりに、わたしはよくひとにこう聞きます。「あなたは、いのちをいかしていますか?」と。この問いは障害を持っているひとにもそうでないひとにも区別なく発することができます。そして、これが一番ひとの生き方の基本にふれた問いだと確信しています。


今から20年余り前、ちょうどわたしが歩けなくなって勤めていた都立光明養護学校を休職せざるを得なくなるかならないかの頃、ある人と偶然再会しました。わたしは37歳になっていました。その人はポリオの後遺症で、片足が不自由でした。同い年でもあったので気が合って、人生ちょうど半ばにさしかかってそれまで見聞きしたこと、出会った人達の書いた文章などをまとめて本にしてみようということになりました。そうして出来たのが『だから人間なんだ』(販売/えんとこねっと)です。イラストから表紙の絵まで、全て障害のある人たちだけによって成った本です。1985年のことでした。


「いのちを肯定する障害者の五原則」として、①自分からにげないこと。②自己規制をしないこと。③自分で決めること。④今やりたいことをやること。⑤すべてを生かすこと。・・・これがこの本の結論として書かれていることです。


作っている間は障害をもつ者だけを対象として考えていたのですが、出来てみるとこれは障害があろうとなかろうと全てのひとに共通して言えることだと気がつきました。それで一挙に世界が開けました。


それまでは「健全者の世界」はわたしにとって見通せない世界でした。1974年に教師として都立光明養護学校に採用されたのですが、「一人の余計者」として絶えず差別され、いじめられる日々でした。自分が出た学校でこんな扱いをうけるとは想像もしていなかったのです。闘いの毎日でした(1982年『苦海をいかでかわたるべき』上下巻社会評論社)。


そしてその頃、わたしは小田急線の梅丘駅にスロープをつける運動に関わり、3年かかってそれを成功させると、1980年に世田谷区に対して、介助の公的保障を求める運動を地域の仲間たちと始めたのです。その時の合言葉は、やはり「差別の糾弾」と「障害者の解放」でした。「健全者」は「障害者」を差別し、引き回すものでしかありませんでした。「障害者」は狭いところに閉じこめられた者であり、「健全者」は、広くてすばらしい世界のなかで生きているに違いない、という思いこみから抜け出せていなかったのでしょう。


もちろん、差別は社会的な構造をもったものであり、個人が意図的に差別するか否かに関わらず、この世の中に生きているかぎりそれからまぬがれ得ない、という側面をもっています。でも、よく考えてみるとその差別の構造は、個々人の何気ないふだんの生き方そのものによって、支えられているのです。いのちをありのままに生かすのではなく、むしろそれを殺す生き方によって。たとえば自分を評価するのに、あるひとつの価値観で自分をひとと比較して、劣等感に陥ったり、優越感に浸ったりしているような…。


あなたは、いのちをいかして生きていますか? 一度かぎりの、ありのままのいのちを。世間体や打算の世の中に流されて生きてはいませんか? 障害を持っていると、そんなものに流されることはできません。障害というのは、だから契機となるのです。そんな意識にあふれた世の中のありかたをしっかりと見通す目をもつ…。


立場は逆転しました。いま、わたしは「健全者」の世界を見通せるようになりました。そして残念ながら障害をもつひとたちの中にも、いまだ世間体や打算の世界から抜けられずにいるひとが少なからずある、ということも分るようになったのです。


とはいっても、わたしのからだの機能は日に日に落ちていっています。また、現実には「障害者自立支援法」などというものができ、介助を受けるのに制約となることがとても多くなってしまいました。国や地方自治体に対して、必要な人に必要なだけの介助を保障させる運動は続けざるを得ない。


でも、たとえどんな姿であろうと、いのちをいかし、いかしあうと決めてそのとおりにする…。それは障害をもつ者にとって、もっとも無理がなく、しかも輝かしい生き方なのです。世の中の人々がなんと言おうと。そしてそれは目立った障害のないひとにとっても同じことであるはずです。それさえあれば差別など、もう問題ですらなくなるような…。


じつは、わたしはそういう生き方を共有しようとするひとたちと一緒に、「ケア生活館」と称して都内に単身世帯を含めて約50世帯が入居できるような集合住宅を建てようといろいろ考え、実践してきました。そしてその仲間作りの第一歩が西伊豆松崎の甘夏のみかん山だったのです。


このみかん山には、毎年放っておいても甘夏がどっさりなるし、桃やキーウィなどの果樹も植えてあります。山菜、タケノコなども生えてきます。他の団体のイベントに使ったこともある。わたしの教え子にあたるひとがやっている「ゆうじ屋」に提供しておいしいケーキの材料にもなりました。今は一時頓挫しているとはいえ、これからもなんとかよい方法を考え、あきらめずに続けてゆきたい。


わたしが生きている内に実現できるだろうか、とも時々考えますが、地域の再生という課題の中にしっかり位置付けることを通して実現できないだろうか、と今は考えています。


みなさんも一緒に考えませんか? そしてむしろこの世田谷の地からこそ実現させてみませんか? 少しおおごと過ぎるようにも見えるでしょうが、さっき言ったような規模があれば実にいろいろなことができるはずです。例えば生産地から直に必要な物を共同購入するとか、生ゴミなどを集めて発酵させ、発生するメタンガスを燃やして発電するとか…。


こんな夢のある提案をして、わたしの今日の話を終えることにしたいと思います。


 2013.4.6 (ある講演会での私の代読原稿)


 -Ayurveda salon-

  Arunachala アルナチャラ

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